「感動とは感じて動くと書くんだな」
久しぶりの相田みつをだ。
今日は久しぶりのオフでのんびりとした1日を過ごした。こんな日は、相田みつをの詩集を眺めることにしている。
以前は特に感じることの無かった「感動」という短い詩だが、今日のように落ち着いてゆったりとした気持ちで読んで見ると、味わい深いものを感じた。
何かに感動したことがきっかけになって、自分自身が行動して、実感することがある。ついつい頭だけで理解し、それを感動と思うこともある。
高学歴社会、お互いが干渉しあわない社会、小さなグループ内の秩序だけ守る縮みあがった社会など、日本を形容する言葉が沢山イメージできる。こんな社会では、感動を味わうことが少なくなっているように思う。
何かと理屈で物事を考え、理論で攻め立てる、例えば、JR西日本の運転手教育がこれに相当するんだろうなと思った。
オーバーランした運転手、遅延運転した運転手に日勤教育と称して、厳しく、本人から反省の言葉を何度も何度も言わせ、同時に罵倒し、人間性を否定する。
こんなのは教育ではない。そもそも会社で教育という発想自体が間違ってないか。
単に会社組織における管理する者とされる者という役割の違いであって、会社の目指す最終目標は共通しているはずだ。
この会社では感動という文字は見出せない。管理職者は、人間が「理解して動く」と勘違いしているのではないか。理解して動く、すなわち、理動という言葉は日本語にあるか。ないだろう。
大所高所に立てば、JR西日本は労使とも、競合路線の阪急に勝ちたい、そのためには利用客に高速性、確実性、安価という「早い、安い、うまい」を提供することが共通の目標ではないか。その、目標達成のために、ただ単に運転手に厳しくすればよいのか。
誰が考えたって無理だよ。
実際に電車を動かすのは運転手、ドアを開閉し、利用客を受け入れるのは車掌、この人たちが現場で全てを握っていると思う。
そう考えると、ただ単に運転手に厳しくすることよりも、経営側、管理職者、運転手、車掌などの運行関係者によるプロジェクトチームを作り、参加者で目標を共有し、その目標を達成する方法を考えてみてはどうだろうか。
人間、それも社会人として経験を積んだ人間、家に帰ればお父さん、お兄さん、あるいは地域ボランティアで慕われる人、様々な人間、人間が知恵を出すことは無限の泉から湧き出てくる清らかな水のようなものだ。
経営だけで、あるいは企画部門の人間だけで、目標達成できる方法が考え付くとは到底思えないな。だからこそ、関係者の知恵を集めてはどうだろう。と思う。
今回のJR西日本の教訓は、JR西日本に限らず、全ての企業、あるいは経営者、管理職者がよく考えるケースとして捉えてみることをお勧めする。
一人で考えず、従業員とともに考えることは、恥ではない。従業員にとっても苦痛ではない。経営者よ、管理職者よ、もう勘違いすることはやめよう。