受験時代の思い出(その2)

大学浪人をした。

浪人時代、生まれて初めての予備校に通った。

「東大国立ゼミ」という予備校で、高田の馬場にあった。
「東大国立ゼミ」を選んだのは、東大を中心とする国立大学を目指す予備校と思い、自分の志望に合致するためでった。
しかし、予備校名の由来をお聞きし、驚いた。
東京の大学と地方の国立大学を目指すということで、私学も視野に入れていたためだ。

予備校時代は、「眼から鱗」の毎日だった。
例えば、化学の周期律表は、「スイヘーリーベボクノフネ・・・」と語呂合わせだったり、日本史の年表も語呂合わせ、数学に対しては、原理原則ではなく、過去問をいかに効率よく解答するか。
高校生の時代は、教科書をベースにしていたので、真正面から取り組んだ。
予備校では、大学受験に勝つ方法を学んだ。

世の中にこんな便利な勉強があることを始めて知った。

しかし、半年もすると、語呂合わせには飽きが生じ、結果的には真正面から取り組む勉強のほうが、非効率でも着実であることを知った。

こんな紆余曲折を経て、着実に模擬試験の点数は上昇していった。

最後の模擬試験では、英語、数学、国語、物理、化学、日本史、世界史の7科目で650点近い点数を叩き出した。
これでやっと浪人生活から脱出できることを確信した。

第一志望は都立大学工学部土木工学科であった。
しかし、一発勝負には不安があった。このため、私学も滑り止めで受験した。

学習院大学青山学院大学早稲田大学理工学部早稲田大学教育学部武蔵工業大学・・・結構受験させてもらった。
このうち、安全パイと思った学習院大学青山学院大学に粉砕された。
しかし、これらの不合格後には奮起し、残り全てに合格した。
早稲田大学の合格発表は今でも覚えている。
巨大な紙に、小さな文字で受験番号が書いてあった。
見えない、近くにいた大学生が双眼鏡を貸してくれた。
そして、やっと自分の番号を確認した時は、嬉しいというよりも、また私学に落ちたという敗北感を味あわなくてもいいんだという安心感が強かった。
今も早稲田大学は凄まじい受験者数であるが、その当時もかなりの数が合格していた。おそらく定員の10倍近くかなと言う印象があった。

そして、本命の都立大学の発表だ。
大学の掲示板でこじんまりと発表されていた。
工学部の発表の紙の大きさがA4版で1枚だった。
土木の定員が30名程度、合格者も30名程度で水増し合格がほとんど無かった。

これで受験から開放された。

今でも時々、受験生時代の重苦しさを夢で見る。
しかし、大学生〜大学院生時代は、ある意味、好き勝手に勉強し、アルバイトでめちゃくちゃ稼ぎ、飲み、遊び、旅行し、そんな夢のような時代であった。

しかし、その当時は苦しいこともあった。しかし、今となっては苦しいことほど、笑って思い出せる。
思い出とはそんなものだろうと思うようになった。

今、二人の息子が別々の価値観で受験に取り組んでいる。
受験は手段であり、通過点であることを考えると、どこの大学でも構わないと思う。
長男は私立大学を受験すると言う。次男は県立高校でサッカーをやりたいと言う。

長男は大学で何を学びたいか、どんな資格を取りたいかが明確だ。
従って、どこの大学に行くかはあまり気にしていない。

次男は、サッカーの監督・コーチで志望校を決めたようだ。密かに県立高校初の国立勝利を狙っているのだろう。

夢を持つ二人の息子を心から応援したい。